ジョン・スチュワート・ミル『自由論』光文社古典新訳文庫
古典輪読会をやり続けていくことを決め、先月第1回『自由論』を終えた。やりっ放しにするのももったいないので、本書について自分の総括的感想を書いておくことにする。
生涯で一つのテーマを一貫して主張している研究者こそ信用できる ― 『反脆弱性』(ダイヤモンド社)でナシーム・ニコラス・タレブはそういう趣旨のことを述べていた。
ミルもまさしくそのような研究者と言えるだろう。論理学、倫理学、経済学、政治学と彼の活躍は多岐に渡るが、その中心原理となるテーマは一貫している。それは「自分の考えのみが正しいと考えず、他の多様な考えの中により優れたものがある可能性を大事にする。」ということだろう。
この『自由論』では自分の考えを他者に押し付けるよりも、人の迷惑にならない限りそれぞれの自由に任せるべきであるということが述べられている。少数意見を尊重することが個人の自由を守ることであり、それが知性を発展させることになるとしている。「多数派の専制」によって少数派の変わり者を潰してしまうような社会では中長期的には衰退してしまうということである。
論理学では、ミル以前では人間本性(人間の行為の傾向)から法則を演繹して導き出していたが、ミルは帰納法と演繹法を相互補完的にとらえ論理体系を作っていった。これはどういうことかというと、演繹によって自分の頭の中だけで導き出される論理は不完全であると考える一方、経験から機能的に導き出される論理もまた、人間が経験して吸収した事象以外の可能性を見落とす危うさを孕んでいる。この考え方にもまだ見ぬ道の可能性への希望を重視する姿勢が見て取れる。
倫理学においてはベンサムの功利主義を引き継ぎつつ、彼の「量的功利主義」を批判し、人の功利(利益、幸福)には人それぞれ多様な質的違いがあるとする「質的功利主義」を主張した。
政治学では再分配に力を入れ、格差を少なくすることを重視した。労働者や女性がより自由な選択肢を持てるようにすることが社会全体の活力を生み出すと考えたからだ。
このように、分野は違ってもそのテーマは一貫している。これは解剖学者の養老孟司が自分の専門分野は対象ではなく手法、つまり形態学だと言っていたことに通じる。一人の研究者が貫く一貫性は研究対象ではなく、その手法や原理だということだろう。
ミルは思想の彫琢とはこのようにあるべきだと教えてくれる。
何故ミルはこのように自由と多様性を一貫した軸として考えるようになったのか。おそらくそれは少年期に父からスパルタ式の厳しい詰め込み教育を受け、うつ状態になるほどに追い詰められたというエピソードが関係しているだろう。このような苦しみがあったからこそ彼は自由主義を軸として自らの研究分野を切り開いていったのではないかと推察する。そして巨大な業績を作り上げた。
中国拳法の八極拳の始祖李書文が言ったとされる「千招有るを怖れず、一招熟するを怖れよ」(千の技を持っている者は怖がる必要はない、一つの技に熟練した者こそ恐れるべきである。)